15の春 |
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2024年 03月 14日
きょう公立高校の合否発表の日。
ももちゃんとママは高校の正門前での発表を見に行った。 何日か前、神様は私に合格のイメージを与えてくれたように思ったけれども、私はそれが信じられなかった。私の勘違いかもしれない、と思った。 ももちゃんの11月の試験の点数はその高校の合格ラインよりかなり下だと思っていた。 それから夫と私で受験勉強を始めたので、ちょっとどうかなと思っていた。 ももちゃんは志望校を変えなかったし、毎日私の家に来て勉強した。 ももちゃんの家はお隣なんだけど。 1月の試験で5教科で100点以上アップしたので、もしかしたら合格できるかも?と思い始めた。 2月からはほとんどももちゃん自学自習。 本当に辛抱強く勉強していたので、たとえ不合格でも悔いはない、と思えるほどになった。 発表の時間。 ももちゃんとママからラインで「合格したよ」とうれしい報告。 ももちゃん、喜びの涙が止まらない。 倍率の高い高校だったから悲しい涙を流している子も多いはず。 #
by pompom518
| 2024-03-14 12:30
| 家族
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2024年 03月 03日
正芳先生の説教を聞いた後では「すばらしい説教だったなあ」と思うことが多い。
今日、みずき先生の説教を聞いた後で、「神様はすばらしい!」と思った。 神様は本当に生きていて、 しかも私たちを見つめてくれている、 助けてくれている、 慰めつつ、励ましてくれている、と思った。 神様は私たちの祈りを聞かないような顔をして全部聞いている!と思った。 きょう、みずき先生が講壇に立って説教をしてくださるということそのものが私たちには神様の御業としか思えないし、心が震えるくらいの喜びだった。 心の霧が晴れたような… ずっと祈り求めていたことがやっとかなったような… そうそう、本当にみずき先生が説教壇に立たれる時、柔らかな日差しが会堂に差し込んできた。きょうは一日お天気の悪い日だったのに。 病気のために困難な道を歩まれて、苦悩と深い悲しみに涙して、 底の底で神様と出会われたから出てくる言葉の数々。 『満ちあふれる慰め』(説教題)の時間が会堂を満たした。 若くして認知症を患った妻を毎週連れてきているご主人がまっすぐ前を向いて説教を聞いていた。 自分は仏教徒だから自分には伝道しないでくれ、と言いたいご主人が熱心に耳を傾けていた。 これが最後になるなんて…本当に残念だ。 きっといつか、またどこかで会える、と思う。 みずき先生の説教は金沢元町教会のホームページから聞けます。
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by pompom518
| 2024-03-03 20:04
| 説教
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2024年 02月 28日
2月25日の大澤先生の説教の説教題は「憐み深いキリストによって」であった。
さて、有名なサマリア人の話。 強盗に襲われて半殺しになったユダヤ人を助けたのは祭司でもなく、レビ人でもなく、敵として憎み蔑むサマリア人であった。 親切な善きサマリア人。 ユダヤ人にとっては主の語られるたとえの設定に無理を感じるところであろう。大澤先生はさらにこの話が38節以降のマリアとマルタの話に繋がるとして続けて語られたので、私はびっくりした。 律法の専門家にサマリア人のお話を語られた後で、イエス様は「行ってあなたも同じようにしなさい。」とおっしゃった。このお話を聞いた人は誰でも自分も善きサマリア人であろうとしたことだろう。このサマリア人と同じようにしようと願ったことだろう。 マルタもそう願った。ただ御言葉を聞いているだけじゃだめだ、実際に隣人愛を生きなければ。だから主が連れていらっしゃった人たちをもてなしたい…。 「ところが、やりきれないのです。情けないことに、イライラしてくるのです。・・・主の喜ばれる隣人愛に生きようとして、頑張って、でも疲れて、心がいっぱいになって、人を責め始めて、、、。多分、マルタは、イライラを爆発させた後に、主の言葉を聴いて、頭が冷えて、もしかしたら自己嫌悪に陥ったのではないかと想像します。」 「ここに愛に躓いた者がいます。自分の貧しさに絶望し、倒れてしまった者がいます。善きサマリア人であろうとして、やりきれなかった人、結局、イライラを爆発させてしまう人、愛を必要としている者の横を通り過ぎてしまう祭司、レビ人と変わらない自分であることに目が開かれ、しゃがみこんでしまった人、倒れてしまう人、、、。しかし、なお、主イエスの御言葉の中に、そのたとえ話の中に自分の姿を見つけることが許されている人。 そうです。挫折してもマルタは、やっぱり、このたとえ話の外にはいないのです。なぜならば、倒れて死にかけているこの人の元に、憐れに思って駆け寄る者がいると主はお語りになったからです。」 倒れこんだマルタの元に駆け寄ってくる善きサマリア人、それは主イエスのことであると。 「カトリックの神父であり、聖書学者である雨宮慧という方は、憐れに思って駆け寄ってくるサマリア人とは、主イエスのことであり、瀕死の重傷を負って倒れている者とは、私たちのことであると言います。しかも、これはこのたとえ話を読む時の古い伝統を持つ教会の読み方であると言います。これはカトリック、プロテスタントを越えて、私たち教会の基本となる聖書の聴き方なのです。」 そうなのか。 善きサマリア人がイエス様、倒れこんでいる人がマルタであり私である。 イエス様は倒れこむ人のところに駆け寄って、腸を痛めるほどに気遣ってくださる…。 でも、イエス様は倒れたマルタを諫められているのはどういうことだろう? イエス様に「マルタ、マルタ」と2回も名前を呼んでもらっているのは嬉しい。 けれども、「あなたはいろんなことに気を遣い過ぎて、思い煩っている。しかし、必要なことは一つである。マリアは良い方を選んだのだ。それを取り上げてはならない。」との御言葉は何を意味しているのか? それは、この世のことに気働きができ、てきぱき動けるマルタ的女性性と、この世のことには多少疎くてもイエス様の御言葉を聞くことに集中できるマリア的女性性のうちで、マリアはマリア的女性性を選び、マルタはマルタ的女性性を選んだということ。イエス様はこの世のことより神様の御言葉を重視すべきと考えておられるということ。 「それを取り上げてはならない」という叱責は「それはあなたに何の関係があるか」と、ヨハネと較べたペトロを叱ったイエス様に似ている。(ヨハネ21:22) 倒れこんだマルタのところへ駆け寄ってきてくれなかったイエス様、と思うので、水曜日の祈祷会でもう少し説教の説明をしていただいた。 大澤先生によれば「イエス様に叱責されていることが幸いである。主と顔と顔を合わせて叱ってもらっていることは救い。主が裁いてくださったことはありがたいこと。滅ぼすための裁きではないから。御言葉によって叱責され、御言葉によって主の内に入っている。」ということであった。 私、イエス様じゃなくて大澤先生にいっぱい叱ってもらったわ。 それが救いというか勉強になったことは確かだと思う。 #
by pompom518
| 2024-02-28 22:26
| 聖書
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2024年 02月 27日
2月25日の大澤先生の説教はルカによる福音書10章25節~37節。
善きサマリア人のたとえとマリアとマルタ姉妹のお話とが連結して語られた。 説教の内容に入る前に、聖書の読み方で「御言葉の矢が刺さる」ということについて。比喩表現でなく、具体的にもっとわかりやすく語ってくださった。 「それは神秘体験が起こると言うのではありません。ただ、言葉が通じるということが起こるのです。ここで、主イエスがお語りになった言葉は、まさに、私自身の心の動きが語られていると実感するということです。」 御言葉の矢が刺さるとは神秘体験ではなく、深く実感されること、そして巻き込まれてしまうこと。実は聖書を読んでいてそういうことはよく経験する。 「その書に問うているつもりが、いつの間にか問われる者へと入れ代わり、安全なところから、神の言葉を読み、観察しているつもりが、いつの間にか自分が巻き込まれ、まな板の上に載せられてしまうのです。ここで律法の専門家と主イエスの間に起こっていることと同じことが、聖書を読む私たちと主イエスとの間にも起こってしまうのです。」 問うていたのに問われる者となり、客観的に観察していたのに巻き込まれ俎上にのせられ、主観的な判断を求められている。気が付けばイエス様が目の前に立たれている…。 「実際に、私たちにもよくわかるのではないでしょうか?律法の専門家の自分を正当化しようという言葉が、よく分かる。・・・隣人を愛すること…において、無制限に適用されるなら、それはキリがない。それが無制限に適用されるならば、私はすぐにすり減って、自分はなくなってしまう。だから、隣人に制限を設けたい。わたしが愛すべき愛の対象を絞りたいのです。」 「このことに共感できるならば、私たちにも御言葉の矢は刺さっているのです。私たちも「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と語っているのです。そしてまた、その居心地の悪さを解消するために、自分が今している、これまでしてきた慈善、親切を数え始めて安心しようとするならば、そこでも、やはり、この律法の専門家がしようとした自己正当化が、このわたしにも起きているのです。これが、神の言葉を生ける神の言葉として聴くことです。」 この律法学者の思いは確かによくわかる。 すべての人が私の隣人だと思うから。 私の持てるものをすべてささげて、私の命もささげたら私は消えてしまう? 私自身が誰かに助けてもらわなければ生きていけなくなってしまう? でも命をささげるほどに隣人を愛したら私はすり減るだろうか? お隣のおじいちゃんの孫が小児がんになった。 3歳の孫が病気に耐えている姿を見るのが忍びなかったおじいちゃんは自分が代わってやりたいと言っていた。そしてある日おじいちゃんは本当にがんになって亡くなった。74歳だった。 孫はつらい抗がん剤治療にもよく耐えて、今は元気な中学生になった。 おじいちゃんはきっと孫のために自分の命をささげてもいいと祈ったことだろう。 たといそうでなくても、おじいちゃんは孫を命をささげても惜しくないほどに愛していた。 おじいちゃんが孫を愛するように、隣人を愛することはできない、とみんな思う。 隣人を愛しすぎた結果、自分が誰かに迷惑をかけてしまうようになることを恐れている。 「誰にも迷惑をかけない」ことが隣人愛だなどと嘯くことになる。 日本では「迷惑をかけたくない」と考える人がとても多いし、私の夫なども子どもに迷惑をかけたくない、と言い切る。 それが隣人愛なんだろうか? #
by pompom518
| 2024-02-27 20:28
| 説教
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2024年 02月 22日
きのうは外面的献身生活だったけど、きょうは内面的献身というか、祈りについて。
私は祈りのノートがあって、それは月ごとに手書きされるのだけれども、 だいたい1ケ月そのときの祈りの課題にそって祈り続けていた。 最初に主の祈りがあり、今月は能登半島地震の被災者のための祈りがある。 そして…いろいろ続くのだけれども これって、神道の祈りとおんなじじゃないだろうか? 神社で祈っているのか、私? そういうすっきりしない思いになっていた。 そういう祈りも必要だけれども、それだけじゃないって感じがするようになっていた。 この祈り、どこか違う、とジェームズ・フーストンを読んで思うようになっていた。 でも、どこがどう違うのか、わからないでいた。 きょう島田哲也先生のお話を聞いていて”はっ”とした。 「あなたの心の扉を見つけよ。 そうすれば、そこが神の国の扉であることを発見するであろう。」 (クリュソストモスの言葉) 「神に対する思いを持つということは、自分の人格の中心に神を迎えることを意味します。」(「神との友情」ジェームス・フーストンp22) 私が思い出す限り小さい時に受けた心の傷は 愛する母の言葉で愛する祖母が泣いたことである。 どういう言葉だったのかは思い出せない。 でもそのシーンははっきり覚えている。 仲の良い家族であったから1回きりのことだけど 母の言葉で祖母が顔に手をあてて泣いたのである。 それは私の心に深く刺さった針のようである。 小学校2年生の時に、男の子の友達がいたずらで私のクレヨンを取っていったとき、私は「どろぼう」って叫びながら学校中を追いかけた。それで先生に叱られ、帰ってから父に大黒柱に縄で縛られた。反省が足りなかったから。 それ以来、実は私は決して友達の悪口を言わない、陰口も言わないって決めていた。 中学生の時も高校生の時も大学生の時も決して悪口を言わないようにしていたのに、この十年くらい私、平気になっていた…。 でも私の「心に刺さった針」が私の「心の扉」になった。 あのとき私は愛する母と愛する祖母が仲良く平和に暮らすことを切望した。 神は平和の神である。 愛なる神である。 #
by pompom518
| 2024-02-22 22:52
| 教会
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