2015年 04月 16日
山上の説教 幸い |
悲しいことがいくつか重なった。それは悲しすぎてまだ文章化することができない。今後もしないだろう。でもそんなときこのみ言葉が降ってきた。
「悲しむ人々は幸いである。
その人たちは慰められる。」
そう、イエスさまが私の悲しみのすべてを知っていてくださる。だから私は慰められ悲しみが薄らぐのを覚える。
「心の貧しい人々は幸いである。
天の国はその人たちのものである。」
私の心は豊かではない。人を愛することにおいて貧しい。真理を求めることにおいて貧しい。信念をもって歩むことにおいて貧しく、揺れる葦のようだ。イエスさまがいてくださらなくては私は前を向いて歩むことができない。でもイエスさまを仰ぎ見るとき目の前に天の国が現出する。主よ、私のうちに愛を漲らせてください。
マタイ伝5章から始まる山上の説教の冒頭部「幸い」と題された部分。2行ずつになっているけれども、1行目と2行目の間に「イエスさまに出会えば」「イエスさまを信じることで」「イエスさまがこの地上に来たのだから」という言葉を挿入することで意味がわかるようになった。島崎先生の著書「マタイ福音書と現代Ⅰ」から得られた観方である。島崎先生はもっと一つ一つ細かく分析していらっしゃるのだけれども。「マタイ福音書と現代Ⅰ」はもう少しで終わる。「マタイ福音書と現代Ⅱ」もすべて山上の垂訓についてである。
by pompom518
| 2015-04-16 22:53
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