2017年 07月 06日
マタイ伝14章 |
水曜祈祷会でマタイによる福音書14章を読んでいる。
あらすじはこうだ。
洗礼者ヨハネが殺されたことをヨハネの弟子より報告されたイエスはひとり人里離れた所に退かれる。
群衆はイエスの後を追いかける。イエスは群衆を憐れみ病人を癒やす。
そしてお腹をすかせた群衆に5つのパンと2匹の魚から5千人以上の群衆が満腹するパンを与える。
それから、弟子たちを船に乗せて、自分は群衆を解散させる。
そして祈るためにひとり山に登る。夕方になってもただひとりそこにおられた。
弟子達の乗った船は逆風に悩まされていた。するとそこにイエスが湖上を歩いて来られた。ペテロも湖上を歩いてイエスの方に行った。しかし、怖くなって沈みそうになりイエスに助けを求めた。
イエスは「なぜ疑ったのか」と言う。
ここではヨハネ教団とイエスはまだつながっている。そしてイエスと固い信頼関係で結ばれている。
イエスさまはヨハネの死を聞いてひとりになりたいと強く思われている。
イエスさまは何を祈ったのだろう?
S姉妹の言うように「神様の御こころは何ですか?」と問うたのかもしれない。
でも弟子達をあえて先に船に乗せているところをみると、
ヨハネの死に自分の死を予想し、自分がいなくなった後で弟子達だけでも福音を宣教することができるように祈られたかもしれない。
奇跡をどう考えるか?ということも問題になった。
5千人のパンの奇跡は4福音書すべてに書いてあること、
大勢の目撃者がいることから私はそのまま本当であったと思っている。
でも比喩として読む人も若干だがいる。
舟はイエスさま亡き後の教会と見る見方(日本基督教団出版局 新約聖書注解)はうなずける。
復活のイエスであれば湖上を歩くだろう。
そしてペテロもただイエスを見つめていれば奇跡も行えるだろう。
ペテロだけでなく、私たちも。
「疑う」ということの原語の意味は「心が二つに分かれること」(島崎暉久著「マタイ福音書と現代」)「二つの魂が同居すること」「二つの判断が同居すること」だという。
よくある。二つの判断を同居させていること。
迷っているときもそう。迷い続けていると結局なんにもできない。
こんなことをいろいろ話し合える水曜祈祷会。
聖書を深く読みたくなる。
by pompom518
| 2017-07-06 23:55
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