2024年 01月 16日
共同宣言の罪理解① |
2002年12月25日発行の雑誌『ルター研究』87ページ~111ページに立山忠浩氏の『「共同宣言」の罪理解』が掲載されている。
もう発行から20年以上経っているけれども、カトリックとルーテル世界連盟(プロテスタント ルター派)との間で1999年『義認の教理についての共同宣言』が調印されたその貴重な文書について論じたものだ。これは宗教改革以来およそ500年間続いていたカトリックとプロテスタントの神学的対立に一定の解決をもたらす重要な役割を担った。調印式は宗教改革記念日の10月31日にドイツのアウクスブルグで開催された。
カトリックとルター派のみならず、その後の20年間にメソジスト、聖公会、改革派も支持・調印をしている。
私自身の罪理解が間違っていた。そうだったのか。という強い印象を受けた論文なので、もう一度しっかり読み直したいと思う。このブログを読んでくださっているTさん、Iさんと一緒に読み進めたいと思う。
まず最初に合意は大変評価できるけれども、実は積み残した問題もある、との指摘がなされる。度重なる協議にもかかわらず、合意できなかったことは次の3つである。
1)義認とは宣義か、成義か?(義と宣言されるのか、義と成るのか?)
2)神と人との共同問題 (義認には人の善い行いが必要か否か?)
3)罪の問題 (罪赦され義とされた人間の、その後の罪の問題)
立山氏の論文では3)の罪の問題を取り上げ、結果的にカトリックとルター派での罪理解の違いが鮮明にならざるをえなかった。しかし、このことは共同宣言を否定するものではない、と立山氏は言う。
一 「罪」理解の相違点
ルター派
「キリスト者は『義人にして同時に罪人』であると理解する。信仰者は義である。
しかし、自分自身を省みる時、自分が全く罪人であることが律法を通して明らかになる。
罪は依然として彼らの中に生きている。
なぜなら、人間は繰り返し偽りの神々に向き、神が創造主として要求するひたむきな愛をもって神を愛することをしないからである。このような神への反抗それ自体がまことに罪なのである。
…しかし、キリストにおいて罪の力は粉砕されている。
…罪はキリストによって『支配されている』
…義とされた者はこのキリストと、信仰において結びあわされている。
…罪にもかかわらず、キリスト者はもはや神から切り離されてはいない。…」
カトリック
「洗礼において与えられるイエス・キリストの恵みは
『現実に』罪あるもの、『断罪に値する』ものすべてを除き去る。
しかしながら、罪に由来し、罪へと追いやる心の傾き(欲望)が人の中には厳に存在し続けることを認める。…この心の傾きを言葉の本来の意味では罪とみなさない。
…この傾きが…神に反抗し、生涯にわたる闘いの対象であることも否定しない。…」
ここでは両者ともに洗礼を受けた後の罪が問題となっている。
ルター派は、洗礼によって罪が洗い流されて義人となっても依然として罪が残る「罪人」と理解するのに対して、カトリックは洗礼によって罪はすべて赦されたとする。
ただ罪へと向かう「心の傾き」が存在するだけだ、と。
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by pompom518
| 2024-01-16 22:32
| 読書
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