オンライン神学校 |
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2023年 11月 07日
あるとき私は人の話を聞けない人間であると気付いた。 娘からもよく「お母さんは生返事ばかり」と言われてきた。 そして教会でも私は話を聞くのがとても下手だということが悔恨につながる。 それで、10月はオンライン神学校で2つの講座を学ぶことにした。 1つは「コーチング序論」 ここで話の聞き方を徹底的に学んだ。 本当はコーチングの学びのはずだけれども私は2時間×4回の授業で誰かをコーチングすることなどできるはずがないことはわかりきっているので、話の聞き方を中心に学んだ。 コーチングは自分自身をコーチングしつつ学んだ。 コーチングの目的は「神の召しを生きることができるようにすること」である。 イエス様はなんでも知っているお方なのに「何をしてほしいのか」とよく聞かれた。 それはクライアント自身が自分の目標を明確にするというコーチング理論に適っている。 自分は何をしたいのか? 何をすることが神さまの御心だと思うか? など自分で自分に質問しながら、自分のやるべきことを明確にして、アクションステップを作りそれに従って今も学んでいる。 授業の中で「80/20」ということが出てきて「この言葉から何を連想しますか?」と言われて、私「80歳まで20本の自分の歯を持つ」という歯医者さんのポスターを思い出した。 先生は「アメリカの教会では2割の人が教会の仕事の8割をしている、と言われます。」なんてお話してくださったけれども(先生はアメリカ人。授業は上手な日本語で)実はこれはコーチングの話す割合を示す数字である。 クライアントが80%話してコーチが話す時間は20%のみ、ということを現している。 30分の時間があったらクライアントが24分話して、コーチは6分だけ話す、という具合である。 コーチングで一番大切なことは「気づき」「発見」である。 もやもやとした状況の何が問題なのか、クライアント自身が自分で発見すること。気づくこと。 もう1つの講座は「神のかたちの回復」という講座であった。 参考文献はヘンリ・ナウエンの「傷ついた癒やし人」であった。 これについてはまた時間のあるときに。 #
by pompom518
| 2023-11-07 01:12
| 教会
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2023年 11月 07日
9月10日から11月6日まで激動の2ケ月間だった。
何から書き残しておくべきか?と思う。 9月10日に牧師から辞任の意向を聞いたとき、驚天動地というか、とても驚いた。けれども牧師がそのように考えるに至った経緯は十分に理解できることと私たちは健康問題について何も、本当に何も助けることができない無念さを抱えていた。私たちの日々の祈りは遠く空しく虚空に消えゆくのみだった。 とても大切な牧者をお守りできなかったことに罪悪感・空虚感・悲しみ・悔恨の念…いろいろな思いが激しく心の中を駆けめぐる日々であった。 牧師は急いで洗礼を受けさせるようなことはなさらないで、辛抱強く神の時を待っておられた。今、教会には洗礼準備会がいくつも必要なほど求道者が与えられている。伝道が忙しいという、コロナの時には考えられなかった時が来ていると思う。この時に…なぜ? 神さまがどのようにお考えなのか、私にはわからない。 けれども、神さまが生きて働いていらっしゃることに戦慄を覚えるできごとがあったので書き記しておきたい。 10月29日の日曜日、説教の中で私たちの今の教会のために多くの人の働きがあることを語られた最後に 「私たちの多くが生涯に一度もその名を聞くことのないような離れた地域にある教会の働きが、数百キロ、数千キロの距離を経て、ここで実を結ぶということが、目に見える教会を作っていくのです。」 と語られたのだ。 その日曜日は牧師辞任の臨時総会も開催されて、私は本当に悲しくて悲しくて泣きながら家路についた。 けれども次の朝、メールを開けてびっくりした。 神さまからメールが来ている!と思った。 9103キロ離れたイギリスからのメールだった。 その方を私たちは知らない。 けれども、その方は私たちの牧師の説教を6年間ずっと聞いてくださっていたのだ。 そして牧師が辞任なさるということを説教の中で聞いて感謝のメールをくださったのだ。 きのう説教で語られたまさしくそのことが現実に起こっていたなんて… そしてこのタイミングでメールしてくださるなんて… メールは10月29日付だからきっとすぐメールをくださったのだと思う。 「私たちの多くが生涯に一度もその名を聞くことのないような離れた地域にある教会の働きが、数百キロ、数千キロの距離を経て、ここで実を結ぶということが、目に見える教会を作っていくのです。」 私も祈りが空しく虚空に消えた、なんて言わないで心をこめて祈り続けよう。
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by pompom518
| 2023-11-07 00:38
| 教会
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2023年 10月 22日
最近読み終えた本について一言書いておきたい。
「祈りのちから」(クリス・ファブリー著 いのちのことば社 472ページ) この本もちょっと分厚い本だけど、小説なので難しい思考を要しないから、夜寝る前の読書タイムに面白く読めた。 神さまに祈りつつ毎日を過ごしているクララという女性は霊的な目が肥えているのだろう。一見、平穏そうに見える人の心の奥の悩みが目に見えるようだ。 クララはイエス様が大好きな女性だ。だからイエス様の話された言葉を暗記するだけでなく行動に移すのだと思う。 イエス様は「あなたは祈る時、自分のへやに入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6:6)とおっしゃった。 クララは自分の部屋のクローゼットの洋服を全部出して、そこを祈りの部屋にしてしまった。そこを「戦いの場所」というのは神様との間を引き離そうとするサタンと闘う場所でもあるからだ。 クララは息子一家と住むことになり、家の売却を不動産屋に依頼する。その不動産屋がエリザベスという女性だった。彼女は結婚生活に悩みをかかえていた。でもクララと祈りの共闘作戦でパッピーエンドに小説は終わる。 しかし、祈りは個人の願いを神様に言いつのってかなえてもらうものではない。クララはそのことをよく知っていた。神様は自分で自分が何を願っているのか、はっきりさせることを求めるから、もちろん、願いを祈ることはかまわないのだけれども、祈りの本当の目的はそこにあるのではない。 祈りは自分を変えてもらうこと。神様の御心を知って、神様の御心を自分の望みとすること。そして神様の栄光が現わされることを願うこと。そこに祈りの意味がある、というクララさんに賛成。これから映画もみておきたい。 #
by pompom518
| 2023-10-22 20:02
| 読書
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2023年 10月 21日
『正典として聖書を共に学ぶ会』に参加してきた。
篠浦千史先生から与えられた課題、 ロマ書の「かけがえのなさ」は何か? その理由を支える構成は?ということについて、みなさんレポートを準備して参加していらした。 どなたも真剣に聖書に向き合っていらっしゃる。 私、ぼおっとしていたけれども『信じることで義とされる』の「信じるか信じないか」は自分で決断することなのだろうか?誰かから強要されるのでもなく「信じます」と言う気持ちになるとき、そこには聖霊の働きがあるのだろう。 「私は信じます!」と宣言してからもどうしても信じ切れない思いが残ることだろう。でも、聖霊が働いてくださるのだろう。そして少しずつ、あるいはある日突然に、ゆるぎない信仰が与えられるのだろう。 「学ぶ会」に参加している時、なぜか、神さまは私から信仰を奪うこともできる、と思った。奪うことも与えることも神様の自由だと思った。 そのとき信仰を与え、神との関係を回復し、義と認めるという『信仰による義』ということがとても重みのある言葉に思えた。イエス様を信じることで罪を赦され義とされるという信仰が与えられるということ…このことの重みが私に迫ってきた。 私の夫もイエス様の十字架によって神様との関係が回復できるよう真剣に祈りたいと思った。 #
by pompom518
| 2023-10-21 23:31
| 聖書
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2023年 10月 06日
10月16日17日に東京で開催される『正典として聖書を共に学ぶ会』に参加したいと思っている。
そこに参加するためには、ロマ書全編を通読して、ロマ書の「かけがえのない主張」は何か? 短い言葉でまとめていかなくてはならない。 それで、私はロマ書を1章ずつ要約しながら読んで行った。 そして、要約したものを眺めて、パウロが主張したかったことは何だろうか、考えた。 その章その章にきらめく言葉があり、一つ一つが多くの人の心に残っていることを思う。 その中でパウロがもっとも主張したかったこと、それは 『人は行いによってではなく、神の憐みにより与えられる信仰によって義とされ、神との間に平和を得る。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしなさい。』 にいきつくと考えた。 そこに行きつくまでに次のような主張も見逃せない。 ・異邦人の救いはユダヤ人の救いに通じるものである。神の深い憐みに感謝し、神の正しい厳しさを恐れよ。 ・律法の本質は神を愛し、隣人を愛することであって、律法の戒め1つ1つを裁きの道具として用いるとき(律法主義に陥り、)神から遠く離れる。 ・私の肉は罪に捉われているはいるが、キリストが内にいて神を「アッバ、父よ」と呼ぶ。霊のみでなく体のあがなわれることを待ち望む。 ・神との和解のためにイエスは十字架で我々の罪の贖いとなり給うた。 ほかにも 「被造物は神の子たちが現れることを切に待ち望んでいる」という言葉や 「誰がキリストの愛から私たちを引き離せるか」 「万事が共に働いて益となること」 「霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成して下さる」 など8章には心に深く刻まれる言葉が多い。 わたしを深く憐れんでくださるキリストを、私も愛すること。 パウロがイエスを愛したように、とまでは言わないけれども、そのせめて千分の1、いや万分の1くらい… #
by pompom518
| 2023-10-06 11:54
| 聖書
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