2015年 03月 03日
そうだったのか、アダムとエバ |
3月1日の主日礼拝の堀江牧師の説教を今週は何度も思い返している。
創世記3章1節から19節 エバが蛇の誘惑にのって善悪知るの木の実を食べてしまうところ。そしてアダムにも食べさせ、アダムは「あなたがくれた女のせいだ」と神をも責めるところ。
堀江牧師はまず罪とは「神さまを軽んじること」とおっしゃった。夫から、妻から自分を軽んじられるとどんな気持ちがするだろう?とも話された。そのとき、私は「決して夫を軽んじまい」と決心した。そして私が教会に出かけるとき夫が言った一言を思い出した。それは「帰りにみかんとおかきを買ってきて」という何気ない言葉であったけれども、きちんと守ろうと決心した。もちろん、決心するほどおおごとではないけれども、説教を聞きながら決心したのだ。決して夫を軽んじまい、と。これまでの私だったら「そんなの自分で買えば?」などと思っていたかもしれない。アダムとエバは神さまの戒めを軽んじた。
「善悪知るの木の実」というのが今までわからなかったけれども、堀江牧師の説教の中ではっとさせられた。
「<神のように善悪を知る>とは、人間が自分の判断は絶対に正しいと考えることを意味します。自分が正しく相手が間違っていると考えます。神よりも自分の方が正しいとさえ考えます。そして、神さまの教えはむずかしいわね。無理よね。と言って、神さまに従わなくてもよいと考えるのです。」
この思考回路、まさしく自分の中にあるではないか。これこそ、悪魔の思うつぼ。神さまの言葉を軽んじていることになる。
アーミッシュの人たちをまた思い起こす。小さなことでもきちんと守ろうとする人たち。自分の娘が殺されても犯人の家族をすぐ赦した人たち。キリストの言葉を学びその言葉に忠実に生きたいと思う。
by pompom518
| 2015-03-03 23:14
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