イエスにつながる物語 |
この夏、我が家にホームステイしていたのはイニエス・ドロネーという20歳のフランスの女の子である。彼女は子どもの時に飛び級して、20歳であるが大学は5月に卒業してきていた。フランスの大学は3年で卒業できる。フランスの大学は試験なしに入れるけれども進級するのは大変難しい。イナルコ大学の日本語学科でも入学時は600人くらいいても、2年生に進級できるのは約半分だという。さらに3年生に進級することもとても厳しい。だから大学の3年間はとても大変だったとイニエスは言う。でも、日本語と日本文化をよく勉強してきてくれたおかげで、フランス語がまったくわからない私ともかなり深い話ができた。イニエスは外交官になりたいという夢をもっている。
イニエスの名前の意味は「神の子羊」というのだそうである。カトリックの洗礼名は聖人の名前を付けるのだそうだが、神父さんがイニエスに付けてくれたのは「タケヤ」という名前であった。日本の聖人「コスメ・竹屋」である。竹屋は秀吉時代に京都市中引き回しのうえ、長崎まで歩かされ殉教した「26聖人」の一人である。遠く離れたフランスで、幼い女の子が「タケヤ」という日本女性の殉教者の名前をもらう。その子は成長して日本語を学ぶことを選び、日本に来て私の家で娘のように過ごしている。その話を聞いているとき、鳥肌がたつように感じた。一人の人への神の深い計らいを見る思いがしたのだ。
さらに「26聖人」からいろいろ調べていくともっと鳥肌が立った。それは、私たちがみなイエス・キリストに直結しているという、つながっているという発見であり、驚きであった。
イエス様がこの地上を歩かれたのはおよそ2000年前。その後ヨハネやペテロ、ヤコブたちにイエス様は霊的権能だけを授けて、伝道の旅に出された。「神の国は近づいた」と言いつつ弟子たちは悪霊を追い払い、人々を清め神の力を実証しつつイエスを信じることを説いていったのであろう。それはやがてローマ帝国をもゆるがし、ローマはキリスト教を国教とするまでになった。その後中世を経て、大航海時代に突入し、キリスト教は異邦世界に広まっていく。フランシスコ・ザビエルが日本に来たのは1549年室町時代のことである。
ザビエルは時の権力者にキリストを広める許可を求めつつ、山口を中心に600人の信徒を作り、2年ほどの滞在で日本を去る。織田信長は南蛮貿易に興味関心が強かったため、ザビエル後に来日した宣教師たちはキリスト教を広めることができた。豊富秀吉もはじめの頃はそれを踏襲していたが、サンフェリペ号事件の後、外国人への不信感から26聖人の虐殺事件を引き起こす。26人の中には幼い子どももいたのに棄教することがなかったという。徳川家康は徳川幕府を成立させるとキリシタン禁令を出す。主よりもデウスを重んじられては困るからだ。260年に及ぶ江戸時代、キリスト教は地下に潜る。信徒は隠れキリシタンとなる。それが幕末フランスとの修好条約が成立し、1864年フランス人によって大浦天主堂が建てられると隠れキリシタンが一人二人と現れる。「信徒発見」である。
信徒たちは喜びいさんで続々集ってきたのに、「浦上四番崩れ」と言われるキリシタン迫害が起きる。明治になる前年1867年のことであったが、明治政府は尊皇攘夷の観点から神道を国家宗教とすべきであると考え、キリシタンに対する弾圧を続ける。配流された者の数3394名、うち662名が命を落としたと言われている。石川県にも400名から500名のキリシタンが連れてこられ卯辰山で労役についた。その監督の任にあたったのが長尾八之門であった。八之門はキリシタンに対して初めから好感を持っていたわけではなかろう。しかし彼の憐れみの心と公平な目、真理を求める宗教心はキリシタンの敬虔な姿に深く感じ入ることがあったと伝わる。
キリシタン弾圧は諸外国からすぐにやめるよう申し入れがなされた。そのときヨーロッパを視察して不平等条約を改正しようとしていた岩倉具視たちは、これ以上続けていては諸外国の反発が強まり条約改正などできないと決断する。配流されていたキリシタンたちは長崎に帰されることになる。八之門はキリシタン一人一人を慈しみつつ見送ったであろう。7年後、彼はトマス・ウインより洗礼を受け、次男の巻に知らせる。巻は尊敬する父が信じるものだからと訳もわからず「洗礼を授けてください」と懇願する。巻はやがて殿町教会の初代牧師となり、イエスの言葉そのままの清貧と愛と従順の生涯を送る。明治、大正、昭和そして平成。巻が自分のひげを集めて書いた書は今も元町教会の和室を飾っている。
イエス様から放たれた世界伝道の命令が、あるときは矢のように地上を駆け巡り、船に乗って海を渡り、あるところでは地下水脈となって滔々と流れ、今の私につながっている。弾圧、迫害があったにもかかわらず国境を越え時代を超えて脈々と受け継がれ、今のわたしに直結している。神様のなさることはなんと壮大で計画的なのだろう、と思うと鳥肌が立つのである。
金沢元町教会の初代牧師・長尾巻のことを私たちは130年経っても覚えている。偲んでいる。イエス様と私の間は2000年だけである。ということは20人の人がいれば記憶は十分つながるのだ。イエス様の公生涯は詳細な記録も残されている。神の子がこの地上を歩いていたのはついこの前のことのように思える。
