2017年 05月 10日
燃えさかる炉の中に投げ込まれる人を見て心が痛まないのか? |
きょうの金沢元町教会の祈祷会はマタイ13章。
イエス様のたとえ集。
きょうもいい話し合いだった。
でもそこでは3つの約束「ここでの話は他に話さない」「人の話を否定しない」「教えない」があるので、ここには書かない。
「世の終わり」に審判されるということなのだが、「燃えさかる炉の中に投げ込」まれる隣人を見て、投げ込まれない人の心は痛まないのか?
私はすごく疑問だった。
そういう状況を考える時、私は初め「正しい人」に自分を置いて考えた。
私はクリスチャンだから・・・って。
でもそうではない。
「正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け」とあるから、一見クリスチャンではあるけれども、審判にかけられるということだ。「主よ、主よ」というものがみな天国に行くのではないのだから。
炉の火に投げ込まれる隣人がいるという状況では正しい人は一人もいない、のではないか?
真のキリスト者には人をイエスにつなぐ使命があるわけで、
その使命が全うされていない、ということなのだから。
私の夫はまだ主イエスを受け入れてはいないので
炉の火に投げ込まれるとしたならば、私は自分も飛び込むか?
いや、夫では飛び込まないかもしれない。
でも息子たちがそうだとしたら、
私もきっと飛び込むのではないだろうか?
まあ、その前に家族にイエス様を伝えられなかった私は最初から×印かもしれないけれども。
私にはわからない。
けれども、イエス様がとてもとても悲しむような気がする。
すべての人が天国に行くこと。
それは、なかなか時間のかかる使命だから神様は終わりの日を一日延ばしに待っておられるのか?
きのうfacebookの広がりをテレビで放送していたけれども、
そしてそれは感動的な善意の広がりであったけれども、
そのようにfacebookにつながる人がどんどん増えていくように
イエス様につながる人がどんどん増えて、みんな天国に行けるのならいいのに、
からし種のように、パン種のように大きく大きく天の国が膨らんでいけばいいのに。と思った祈祷会でした。
by pompom518
| 2017-05-10 15:10
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