2018年 10月 17日
すべてのキリスト者は献身者 |
10月14日の大澤正芳牧師の主日礼拝説教は最初から「アーメン」(その通りです)と言えるものだった。
私は最後まで心の中で大きくうなずきながら聴いていた。
すばらしい説教者が私たちに与えられたと感謝した。
でも決して私に都合のいい説教をなさる、という意味ではない。
「すべてのキリスト者が神に身を献げた献身者である」
「もう自分は自分のものではない」
「自分の本当の主人がいる」
「24時間365日・・・全部神の守りの御手にある者・・・万人祭司」
「隣人に『もう一人ではない。神がいつもあなたと共にいる』と告げるよう召されている」
「モーセのように『これは荷が重い』と言いたくなることがある。」
「神が権能を授けてくれている」
「福音を伝えるにふさわしくない者こそふさわしい者」
「私たちは恵みを、福音を、ただで受けたからただで与えなさい」
「一人ひとりが献身者=伝道者であり、説教者」
「牧会というのは『魂の配慮』、伝道も慰め、元気を与えること」
「私たちは人を立ち上がらせるために遣わされている者である」
先々月のことだったか、教会の「長老会だより」の個人消息のところに私が白内障の手術をすることを記載することになった。その時、ふっとそんなこと書かなくていいのでは?と思った。けれども私の身体は私のものではない、神さまのものだから私が書いてとか書かないでとか言う筋合いではない、と思った。
それが、私にとって「もう自分は自分のものではない」と思ったできごと。
水曜祈祷会で「タラントンの例え」を読んでいる。
私たちは本当に神さまにいっぱいいっぱい与えられている、と思う。
ただで与えられたからただで返そう、と思う。
by pompom518
| 2018-10-17 22:00
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