2019年 05月 20日
信仰は与えられる |
きょうの主日礼拝説教はマタイ16章13節~20節。
とても豊かな内容のところで、大澤先生は今週と来週の2回にわけて語られる。
でも実は大澤先生は2017年5月1日にもこの箇所で説教をしていらっしゃる。
だから、この箇所の説教は3回聞くことになる。
とても楽しみ。
きょうの説教も忘れないうちにメモしておきたい。
きょうは17節のイエス様のお言葉
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。」
を中心に語られた。
まず肯定的な面。
「私の天の父なのだ、ということがわかれば、私たちは信仰の強弱について一喜一憂する必要はなくなる。自分の信仰を調べる必要はなくなる。信仰は神から与えられるもので、信仰を持つとか、持たないとかは、私の自由にできる範囲のことではない。」
「信仰に目覚めるためには神からの働きかけだけが必要。」
「悔い改めを迫った洗礼者ヨハネでさえこのことを知っていた。ヨハネは『神は石ころからでもアブラハムの子たちを作り出すことができる』と言った。」https://jesustoayu.exblog.jp/23398980/
「だから私たちの弱さ・愚かさは問題ではない。パウロはコリントⅠ1:26-30で『神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。・・・』と言っているように、人は神によってキリストに結ばれたのです。」
「ただ神の恵みによって始めた信仰生活は、初めから終わりに至るまで、神が無から有を生み出して下さる。ただ神によって、石のような私たちの心から信仰が生まれてくるのです。だから、信仰を与えられている者が優越感を持つことはないし、動揺している者が疑いを重視する必要もない。不信仰は信仰に覆われる。」
「石からでもご自分の民を造れる神は、ご自分の御業のためにあえて教会を選ばれた。そして私たちを自分の御業のために『岩』とされた。」
「『岩』とは成果を上げているキリスト者のことではない。人間の信仰はあやふやなものである。そのような者が『岩』と呼ばれるのはなぜか?こんなぶれぶれの人間が堅固なたくましい教会を建てあげる『岩』と呼ばれるのはなぜか?それは主イエスが共にいてくださるからである。主イエスが共にいてくださるから幸いなのである。」
「キリストが来られて人間は変わった。全く新しいものに変わった。孤独な人間ではなくなり、神のものである人間、キリストのものである人間に変わった。神にとってわれわれは、価高く貴いものとなりきっている。」
次に説教中、否定的な面。
「ペテロはキリストの一番弟子である。愚直なまでに純粋で情熱があった。そうすると、私たちはペテロを模範としようとする。けれども信仰者となるために人間的な条件は不必要である。そのように考えることは福音に混ぜ物を入れることになる。私たちは簡単に人間中心主義に陥っていく。~ねばならない、という福音の皮をかぶった律法主義と私たちは戦わねばならなかった。」
「パウロは『霊によって始めたのに肉によって仕上げようとしている』と警告を発した。」
説教は本当はもっと長かったし、いろんなことを語られていた。
金沢元町教会の説教「信仰は与えられる」を聞いて欲しい。
でも、私には今週はこれで十分。
きょうは久しぶりにKさん、Tさんが車に同乗して楽しかった。Tさんは近いのですぐ降りられたけれど、Kさんと自然に説教の分かち合いが始まった。これも教会が説教の分かち合いを大切にしてきたからだと感謝する。
by pompom518
| 2019-05-20 00:32
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