2020年 07月 28日
インマヌエル アーメン |
2017年7月2日から始まった大澤正芳牧師によるマタイによる福音書講解説教が2020年7月26日第28章の説教をもって完結した。

教会学校でのはじめての説教 (大澤先生撮影) 小さな子どもたちを引きつける自信がないから 牢屋を作りパウロとシラスと牢番の紙人形を作ったわ。 (使徒言行録16:25-34) こうしてみると子どもたちの視線のバックが散らかっていると思う。 棚の戸も開け放したままだし・・・もう少しきちんとして始めなくては。
説教は全部で134回。
3年と3週間がかりのお仕事であった。
お疲れさまでした!
「ガリラヤで待っている」と言ったのにすぐにマリアたちに現われてしまうところから「復活なさったイエス様の爆発的な喜び」が感じられると先生は何度かおっしゃったけれども、マタイによる福音書を全巻説教し終えた大澤先生の爆発的な喜びも感じてしまう説教であった。
ちょっと引いてしまいそうになるくらいのエネルギーが感じられた。
「インマヌエル アーメン」
(神が我らと共にいます。神はいつも我らの味方です。それは本当のことです。)
それがマタイによる福音書の消えない通奏低音として響いている。
説教の中で
いくつかのテーマがあったと思います。今日の主の大宣教命令の御言葉に見られる要素で言えば、イエス・キリストの良き知らせは、少数精鋭のものか?すべての人を巻き込むものか?また、福音と律法の関係はどうなっているか?このテーマは、どちらも何度も何度も語って来たなと思い出します。
とおっしゃったけれども、?少数精鋭の福音?福音と律法の関係?そんなテーマで何度も語られたかしら?と考え込んでしまった。福音と律法の関係は山上の説教あたりを中心になんとなく覚えているような気がしないでもない。
はあー、聴衆ってこんなものなんだ。(ほかの皆さんに失礼だわ。)
私ってこんなレベルなんだわ。
説教の後にいつも感想をまとめるようにしていたのに
大澤先生をがっかりさせる要素は十分だわ、と思った。
それで、私は説教題の一覧表をホームページから印刷して眺めた。
私自身がこのマタイ福音書の連続講解説教で心に残っていることは何なのか?
自分の内を静かに眺めてみることにした。
それはまず第一に「神様がいつも共にいてくださる」ということ。
説教題をみても「我々と共におられる神」(第2回)
「我々と言ってくださる主」(第6回)
「神の子は我々の間に住まわれた」第74回
「キリストが共にいてくださる」第93回
「世の終わりまで共にいる」第134回
と「共にいるんだ」ということは肌身にしみて分かったように思う。
第二に「信仰は神から一方的に選び与えられるもの」ということ。
説教題でいえば「近づいて来られる神」第5回
「主は呼んでくださる」第9回
「腕組みをこじあける方」第69回
「自分で決着をつけない」第72回
「わたしたちの内側を変えてしまう外からの救い」第79回
「ガンコな憐み」第81回
「あとはもう気づくだけ」第82回
「信仰は与えられる」第83回
「主イエスに聞いてよい」第86回
「呼んでよい」第99回
第三にわたしたちの主はどんなお方か、ということ。
主は愛と憐みに満ちた方であり、神への徹底した従順とそれゆえに世と闘われた方であるということ。
「へりくだった王様」第3回
「誘惑に勝って下さる主」第7回
「私を救う権威」第34回
「わたしたちの病を担う方」第45回
「枕するところのない救い主」第46回
「嵐を凪とする主イエス」第47回
「悪霊を追い出す主イエス」第48回
「あなたの罪を赦す主イエス」第49回
「僕となったあなたの主人」第66回
「小さなものを喜んでくださる主」第76回
「失われようとする人を探し求める神」第92回
「神は負債を免除してくださる」第94回
「神はあなたの頑固さに付き合ってくださる」第95回
「針の穴にらくだを通す神」第96回
「神様は太っ腹」第97回
「自分の命を捧げる主人」第98回
「ろばを選ぶやさしさ」第100回
「人を生かすキリストの怒り」第101回
「枯らし、実らせる神」第102回
「師であり父である神様」第111回
「捨てる神が、拾う神」第113回
「わたしたちのために嘆いてくださる方」第122回
「転んだ先にキリストが待っている」第124回
「一人目を覚して祈ってくださるお方」第125回
「裏切り者を友と呼んでくださる」第126回
「信仰を探してくださる主イエス」第127回
「値踏みする人間と、捨てない神」第129回
「十字架にある王」第131回
「先回りして待つキリスト」第133回
こうしてみると説教ではイエス様や神様はどんなお方であるか、どれほど愛と憐みと深い苦しみにまみれた方であったかについて多く語られたように思う。
それは聖書全体がイエス・キリストについて証しするものであり、聖書のどのページを読んでもイエス様の恵みが見えてくるものであるから、当然そうなるのであろう。
ペテロやヨハネが、そして使徒となったパウロが語ったこともイエス・キリストであったから、大澤先生の説教がイエス様について語るのはそれと同じことだと思った。
この説教題を眺めているだけでこの3年間の説教が早送りのビデオのように蘇ってくる。(この項、できたら続く)

by pompom518
| 2020-07-28 16:49
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