宗教からの解放 |
「もしも、宗教が、再び大いなるものに結びつこうとする人間の努力を語るものであるとするならば、聖書が語るのは、イエス・キリストの福音が語るのは、小さく、儚く、有限であるのみならず、黒い毒性の雲を通ったように汚れて決定的に変質してしまった人間、帰る場所を失った虚ろな人間に、再び結びつこうとされる神のreligion、神の努力を語るものです。」
宗教は人間の努力で神につながろうとするものなら
福音は神様が人間につながろうと努力していることを伝えるものである、と。
「私たちの霊以上に、神の霊、聖霊が渇いてくださったのです。
失われたものと再び結びつくために、ご自身と一体である独り子、神の命そのものであられるイエス・キリストを、人としてこの世に送り、十字架に送られ、その血潮によって、人間の汚れと罪を洗い流されました。」
「人間の宗教的営みを裁き、その力のなさを宣言する聖書ですが、同時に、変な表現に聞こえるかもしれませんが、宗教の終わりを告げているのです。
もう宗教は必要でないのです。なぜならば、人間が本当に健やかに生きるために必要な、霊の健康、大いなるものとの結びつきは、もう、成し遂げられているからです。」
イエスさまが十字架のうえですべてを成し遂げてくださった。私たちはすでに神様に結ばれ、帰るべき場所に帰り、そこで憩っていること、神様が長い間わたしたちを待っていてくださったこと。そして神様は今も待ち続けている人々がいること。
この日の説教を私は上記のように受け止めた。
「宗教」についてはもっと激しい表現があった。
イエスさまを十字架へ追い込んだのが、ユダヤ教の中でももっとも熱心で敬虔なファリサイ派であったこと、「この事実は、私たち人間の最上の宗教心や、霊性を裁く言葉です」と。
宗教が裁かれた!十字架の上で…。
驚いたけれども、このことは無教会を指導なさった高橋三郎先生と島崎暉久先生の共著「宗教からの解放」を想起させた。その最後の部分を掲載しておきたい。
「…キリストの十字架によってすべての人が救われたからである。
キリストは今も生きて働き、すべての人を救いの中に包み込んでいる。
救いが先にある。救われているから信じることができる。
…こうして内村(鑑三)は、信仰の有無による人の差別から自由となった。
宗教から自己を解き放った。
だから内村は、どんな教派の人々とも協調して聖書講習会を行うことができた。
それどころか異教世界にも暖かい同情と関心を注ぎ、惜しみない支援を送ることができた。」同書p132