人生時間~カール・バルト入門~ |
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2023年 12月 26日
深い感動をもって『カール・バルト入門 21世紀に和解を語る神学』(上田光正著)3回目を読み終えた。
私は多分読みたい本はものすごいスピードで読んでしまう。 カメラのシャッターをきるみたいに。 それで、実はあとで混乱する。 今回は丁寧にマーカーを付けたところをPCに打ち込みながら読んでいった。 バルト神学を特長づける言葉は次の3つであると思う。 「恵みの選び」「審判代受的贖罪論」「現在的終末論」 この言葉は難しけれども、私がこの本の1回目を読み終えた時、これはすべて主日毎の説教で語られている!私は聞いている。私は知っている!と思ったことである。大澤先生の説教のベースに多分バルト神学があるから、私たちは幸いなことにこの本を読まなくても毎週このメッセージを聴いているのだ。 次に、バルトの神学に向かう姿勢で忘れられないのは、彼の父フリッツ・バルトの臨終の言葉であると思う。 「主イエスを愛することが主要な事柄である。学問でも、教養でも、文献批評でもない。神との生きた結びつきが必要である。それを与えられるように、われわれは主なる神に祈り求めなければならない。」 この本の中で心打たれたところは多くあるのだが、ただひとつをあげるならば次の箇所。 「・バルトの人間論によれば、人間に与えられた「人生時間」は誕生から死までの有限なものであって、「死」はバルトにとって、「完全死」だからである。肉体は滅びるが魂は不滅である、ということではまったくない。それは人間の願望の単なる投影であって、自然神学でしかない。死によって肉体も魂も完全に滅びる。それは人間は自分が生きている間だけが、己の意志を持った「主体」であり、「自由意志」を行使できる「時間」だからである。それだけが、彼が神を愛し、隣人を愛するために与えられた「持ち時間」である。p158 ・信じ、神に従うために与えられた「時」とは、その人の誕生から死の瞬間までの「人生時間」である、と。p158 ・それだから、「今」という時間はそれこそ「一期一会」であり、決して二度も三度も繰り返されたりはしない。それは、一瞬一瞬の「時」が神に帰るための無限に尊い決断のために与えられた時間だからである。」 「天国へ行ったら何を食べようか何を飲もうかと心配しなくていいんですよ」と堀江牧師がおっしゃったとき「だから、今、おいしいものを食べるんですよ!」と言った年配の姉妹の言葉は真実だったのだと思う。私たちにはこの時間しか与えられていないのだ。 この時間が私に与えられたすべてなのだ。 この一瞬一瞬で神を愛し、イエスを愛し、自分を愛し、自分のように隣人を愛し、被造物を愛で…忙しそうだわ、私…。 神に帰るための尊い決断を隣人がしますように祈る。 もう一つ。 「今地上で一人の人が洗礼を受ける時に、全教会が喜びに包まれるのに似ている。栄光と賛美はキリストにささげられるのである。」 洗礼を受けた時、たとえ本人が意識しようとしまいと、幼児洗礼と同じようであったとしても、全教会が喜びに包まれ、天上ではなおさら大きな喜びがあるのだと思う。キリストに栄光と賛美がささげられるのだと思う。 このクリスマスにも、私たちの教会で嬉しい洗礼入会式があった。 #
by pompom518
| 2023-12-26 22:08
| 読書
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2023年 12月 16日
11月に金沢市内の中学3年生は統一テストを受ける。
その成績は受験する高校の参考資料になる。 合格するか否か。そのテストの結果を参考にするのである。 なにしろそのテストは金沢市内の全中3生が受験するので合否判定にかなり役に立つ。 1月に2度目の統一テストがある。 それで、どういうわけか夫が急に受験モードに入った。 お隣のももちゃんを呼んで勉強させようとしたのである。 息子は「お母さん、おとうさんに何かペットでも飼って。(ももに集中しないように気をそらすため)」 と言っていたのだが、やり始めて見ると、ももは毎日通ってきて試験の成績もぐんぐん上がっていく。 夫は数学理科社会担当、私にも英語と国語を見るようにと厳命する。 ももちゃんは3歳のころ、夫の膝の上でいつまででもさんすうパズルをやっていた。 3歳児を通り越して5歳児の問題までやっていたので、夫は期待を捨てることができないらしい。 「2番目の3歳児(ここちゃん)は綱で縛っておいても綱を振りほどいて遊びに行ってしまった」と夫は言うのだが。 それで、我が家はなんと受験モードなのである。 夫も根気強いし、ももちゃんもよく頑張っている。 ところが、私が木曜日にフォークダンスのお食事会に行ってきて、帰宅後。 何か変?風邪かな?風邪だわ!と思い、すぐベッドで横になった。 帰ってきた夫に「風邪をひいたみたい」と言ったら夫はびっくりする言葉を発した。 「あなたは一番してはいけないことをしたね」と言うのだ。 「えっ?何?それ?」 「受験生がいるのに風邪を引いたこと」が一番してはいけないことだというのだ。 やさしい夫だと思っていたのに、風邪をいたわる言葉もなく、心はひたすらももちゃんの受験にある。 私は風邪をひいたこと以上に夫の言葉がショックだったので、ベッドにもぐりこんで出ないことにした。 夕飯も作らない。(作れない) 朝食も作らない。(作れない) 夫は自分で買い物をし、ついでにロキソニンも買ってきてくれる。 でも考えてみると「風邪をひくこと」が一番悪いことだと思える夫はなんて幸せなのだろうと思う。 ほんとうは私、もっと悪いことをしてきた…。 明日はCSのクリスマスなのでロキソニンを飲んでケーキを作る。 ロキソニン、ずっと飲んでいなかったけどすごく強い薬だと思う。 咳もないし、熱もない。鼻水もでないけど頭痛と倦怠感がある。 もしかしたら睡眠不足がつづいていたからなのかもしれない。 #
by pompom518
| 2023-12-16 21:35
| 家族
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2023年 12月 07日
『教会婦人』の12月号の表紙説教「愛は一(イツ)を求める」を読む。
ヨハネ福音書17章20節~24節。 イエス様が、弟子たちのため、わたしたちのために祈ってくださったところ。 「一つにしてください」という祈りが繰り返される。 神様とイエス様が一つであるその中に私たちも入れて、すべての人を一つにしてください、と祈ってくださっている。 大阪・玉出教会の小池磨理子牧師は次のように語られる。 「神のアガペーの愛は一つを求めます。 人間同士の愛はその、ほのかなうつしに過ぎません。 それでも恋人は相手を情熱的に求めます。 父と子と聖霊なる、私たちの神様は、さらに無限に激しく、しかも濃(こま)やかで、行き届いた配慮とあらゆる恵みを与えながら、私たちを一つにし、私たちと一つになろうとされるのです。」 神様の愛は恋愛感情よりも激しいものなのか!とびっくりした。 こまやかな行き届いた配慮をしながら あらゆる恵みを与えながら 私たちと一つになろうと私たちを求め続けていてくださるのか、と。 私たちに近づいてきてくださるのだ… どうりで毎日胸がせつないわ。 大澤先生もおなじところを説教なさっている。 「教会の中にすでに起こっている主の働きをじっくり探し、思い巡らす。」 「人生の主人の変更こそ福音そのもの」 「主の思いを求めるのは、私たちが主と一つとされているからです。」 「キリストが与えたいと祈られた喜びを私たちが味わっているからです。主の思いと一つになる喜びを知っています。」 「御子と御父が私たちの命を配慮してくださる、私たちの生命線となっている。」 そうなんだ、私が主の思い、主の願いが自分の願いとなりますようにと祈るのは、すでに一つとされているからなんだ。 いつかそうなりますように。 #
by pompom518
| 2023-12-07 22:11
| 説教
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2023年 12月 07日
聖書の読み方として「じっと静かに神を待ち望む読み方がある」と先日書いたけれども、
きょう私に与えられた御言葉はイザヤ書40章30-31節。 『若者も疲れ、弱り、若い男もつまづき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新たな力を得、 鷲のように翼を広げて舞い上がる。 走っても弱ることがなく 歩いても疲れることがない。』 福井県の如鷲(じょしゅう)教会の名前の由来となった聖句だという。 若者でさえもが疲れ、弱り、つまづき倒れる状況の中で 新たな力を得て鷲のように翼を広げて舞い上がる者がいるというのだ。 その人はよほど主に祝福された人。 どんなにか主に愛された人なのだろう。 と、思うけれども、聖書はそうは書かない。 「主を待ち望む者」が新たな力を得るというのだ。 走っても弱ることなく、歩いても疲れないというのだ。 「主を待ち望む」だけで… いまだ出会えていない主、 イザヤの時代の人々にとってこののち何百年も待たねばならなかった主。 その主を待ち望む者に力が与えられるというのだ。 キリストが地上に救い主として到来してくださって2000年。 主は私たち一人ひとりに来て下さる。 主を待ち望もう。 主がわたしに来たり給うときを…。 もうすぐクリスマス。 教会のアドベントクランツの1本目のろうそくに灯りがついた。 待降節1週目の木曜日。 風が強くてきのう教会の玄関に敷いたマットレスが飛ばされていないか心配する。 #
by pompom518
| 2023-12-07 21:23
| 聖書
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2023年 12月 04日
大澤先生が週報(11/26)で続けて補足してくださったH.J.イーヴァントの文章は、神の言葉を真剣に求めてきた神学者の言葉らしいと思う。聖書の言葉は初めから適用を含んでいるから、「適用」とあえて言う必要がないこと。また、「観察」「適用」という人間主体の読み方でなく、じっと静かに神を待ち望む読み方があることを示唆してくれている。
イーヴァントの言葉(『説教学講義』p154-p155)が意味すること(赤字はイーヴァント)
われわれが聖書のなかで求め、見出している神の言葉は、それ自身のなかに人間に対する関わりを持っている。その結果、正しい説き明かしは、正しい適用を内に含む。 それは聖書が語っているのは「わたし」のことだからである。「わたし」にとっての神の救いを語っているからである。だから、それは「あなた」や「彼」の救いについての神の言葉であり、「わたし」の救いについての神の言葉であるから適用ということをあえて言わずともはじめから適用をすでに含んでいるといえるのである。 そうであるから「正しい適用」のためには「正しい説き明かし」が必要であり、その両者を切り離すことはゆるされないのである。
テキストがわれわれにとって何を意味するか、どのようにわれわれに当てはまる言葉なのかを決するのは、神であって、われわれのすることではない。もしそれがわれわれのすることであるとすれば、われわれにとって良いと思うことを自分たちに自分勝手に当てはめようとするであろう。 聖書が「わたし」にどのような救いについて語っているのかを考え分析し決定するのは「わたし」ではない。もし、それを「わたし」がするならば、「わたし」は自分に都合の良いことを「神様が私にこう言っている」「神様が私にきょうはこうしなさいと言っている」と勝手に思い込むことになるであろう。 神様の語りかけを真実に受け止めたいならば、「み言葉の真理が、向こう側から扉を開くのを待ち望みつつ読む」(「雪ノ下カテキズム」加藤常昭p82)姿勢が必要なのだろう。 「聖書の真理を悟る喜びは、自分が真理を発見する喜びであるよりは、思いにまさる真理が示され、自分を捕えてくれる喜びであります。そこで大切なのは、聖書の語ることがらが、ただ単に過去のことではなくて、今私どものために、この私のために起こっている神の救いの出来事であると信じながら読むということであります。」(同書 p82)
つまり、われわれは、説き明かしと適用とを切り離すことは決して許されない。そうでないと、両者の間に人間が勝手に割り込んできて、神の言葉の矢を逸らしてしまうことになる。人間が欲する方向に向かうようにしてしまう。 神の言葉の矢を逸らさないためは「正しい説き明かし」が欠かせない。聖書が全体で語っている神の愛、神の救済史、キリストによる救いなどを把握しつつ、聖書から聞かなければならない。また説教の言葉から聞かねばならない。
私が聖書の中に見出している神の言葉は、いつも既に人間に関わりを持ってしまっている神の言葉である。
それは神が今も生きて働き給うゆえである。そして今も変わらず「あなた」や「彼」や「わたし」を慈しんでいて下さるからである。神は人間に関心を持ち、関わりたくて仕方がないのである。神の語りかけをただしく聞くために性急に自分でこれでいいと決めつけず、ゆっくり待ち望むことにしよう。 神の言葉の矢がささるまで。向こう側から扉を開いてくれるまで。
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by pompom518
| 2023-12-04 16:55
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