私は神の子なの?罪人なの? |
「共同宣言」の罪理解 立山忠浩
ローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟間で『義認の教理についての共同宣言』が出された。
積み残された問題(一致できなかった問題)
1.義認とは宣義か成義か?
2.神と人との共同の問題=(「義認」には人の「善行」が必要か?)
3.罪が赦され義とされた人間の、その後の罪の問題
ここでは3について主に論じる。
しかし、相違点を強調するのではなく、それを個性と見なし互いに尊重しよう。
Ⅰ「罪理解」の相違点
ルター派 洗礼によって罪が洗い流され「義人」とされても依然として罪が残る「罪人」である。「義人にして罪人」
カトリック 洗礼によって罪はすべて赦される。罪へとむかう「心の傾き」はあるが、それはまだ「罪」ではない。
ルター 「罪の欲情」は人間の最も深い部分に巣くっていて、根絶することは不可能。
人間の存在そのものが「罪」から逃れられない。
Ⅱルターの罪理解
(1)「義人にして同時に罪人」
神によって義とされた人間は「依然として罪にとどまる」
パウロが自分に内在する「罪」に苦悩するのは洗礼前か洗礼後か?
ルターは洗礼後と考える。(私もそう思う。)
ルターはこう言いたかった。(簡単な言葉にすると)
「罪が洗礼や懺悔という手段で全く滅ぼされると主張する人々はアホか!
洗礼を受けたらたちまちすべての罪がなくなると信じるアホな考えは、人を誤魔化し、あざむく。・・・こうして罪は、恩恵による教練のために・傲慢の謙虚化のために・僭越の制御のために、霊的な人の内にも残存しているのである。」
(ロマ8章冒頭)「罪に定められることはありません」≠「今や完全に罪が消滅した」
パウロの主張は、罪があるにもかかわらず「どんな惨めな人間」であろうとも、神は決して断罪しない。罪ある自分にも神の義、神の赦し、神の恵みが与えられている。これが救いであり、感謝すべきことである。
人間の側の営み、「洗礼や信仰告白」「信仰の深さ」に関わりなく人は罪人のままである。
にもかかわらず神がその罪人を赦したもう。神の許しが第一義に「義」なのである。
自分自身に義は内在しない。
自分自身にキリストの義は内在するがゆえに「義人」と言われる。
→→「わたしが生きているのではない。キリストが生きているのである。」(ガラ3:20)
「義人」とは内在するキリストの義
キリストの義が存在しているがゆえに「義人」とされている。
(2)不可分、不可同、不可逆
キリスト者はキリストの義のゆえに義人とされていることを信じる。同時に自分が依然として罪人であることを知っている。この相反する事実は分けられない。→不可分
義人とされた私→ 私 ←罪人である私
対内的(自分の内側からみた自分)には罪人
対外的(神の側からみた自分)には義人 ←不可同
「義人にして同時に罪人」≠「罪人にして同時に義人」(逆にしてはいけない。 不可逆)
義人であることが罪人であることに優先しなければならないのは、義人であることが神の現実であるから。罪人であることは人の現実。
罪人である人間の現実を義人と宣言する神の現実、恵みの支配が覆っている。
まず圧倒的な神の義が第一義としてあり、人間の信仰や洗礼を受けることは第二義的な事に過ぎない。
イエスさまの癒やしと信仰の関係にもそのことがわかる。
イエスの圧倒的な恵みがまずある。
神の義が女に臨み癒しが起こり、女に救いがもたらされた。
Ⅲルター派の課題
(1)「罪」の現代的解釈
「義人」であるにもかかわらず依然として「罪人」であるという認識は教会でも語られねばならない。しかし、「罪」とはなんであろう?
「神に背を向け、自分が神になろうとすること?」
「我意」が罪 「我意を覆い隠しているのが信仰の熱心さ」
「原罪とは人間の本性の言い表すことのできない損傷であり、腐敗である。」
宗教改革時代の人々にあった罪の意識は現代人には、ない。
教会は罪の意識を喚起するために十戒を用いてきた。
しかし「不倫」が文化であるとまで言われ、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われる時代である。
「依然として罪人」を強調する場合、現代人にどのように語るか?
遠藤周作は人間の「罪」を「弱さ」として解釈。
「踏み絵を踏みたくないのに踏んでしまう弱さ」
この「弱さ」を「罪」として発信できる。
イエスの福音は「弱者」をも「義人」としてそのまま肯定する。
神の前では誰もが弱い者。弱い者がそのまま許容されることを宣教する。
現代社会が求めている癒しがここにある。
地球規模での崩壊や破壊の原因として人間の罪を指摘する。
自己中心という罪が有り、飽くなき欲求という罪が潜んでいる。
隠れた罪が差別や搾取を生み出し、力ある国が弱い国を支配する。
社会の危機に無関心であることの罪も語れる。
(2)義とされた者の「よい行い」
ルター派にとっての「義認」は「宣義」つまり罪人のままで「義人」と宣言されること。
カトリックは「義化」「成義」という理解。神に義とされた後の生き方や行いは重視される。しかし、ルター派ではよい行いが、自己義認の罪をうむことを警戒し、人間のいかなる功績も否定する。「義人にして罪人」という義認論は「よい行い」からも解放されており、罪人のままでよいという誤解を生じやすい。しかし、ルターは義人とされた者は新しい生を生きることを主張した。
①『大・小教理問答』
ルターは「よい行い」は神の戒めであり、命令であるとしている。
②『キリスト者の自由』
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」
「よい行い」は「~すべき」と考える義務的な考え「から自由」にされて、自由に、自主的に「よい行い」へ向かう自由を獲得した者がキリスト者。
キリストが我々を義としてくださったから、罪と死からの自由、律法からの自由、義務的な行いからの自由が与えられたのである。「キリスト者の自由」は義認の結果である。
③『和協信条』における律法の第三用法
律法の第三用法(・・・義とされたキリスト者に適応される律法)は承認される。
(第一用法・・・粗暴な者に対する外的な規律、第二用法・・・人を罪の認識に導く)
「よい行い」を具体的に展開するための信徒教育、教会活動の整備が必要である。
自由で喜びを伴った「よい行い」の奨励、現代社会はそのようなわざを必要としている。